由緒書き

天平三年(731年)開山
“行基菩薩奇光にひかれて当山に登り、霊木大杉を以って人々のため彫刻安置さる”

極樂寺は天平三年(731)に行基菩薩により開かれました。 行基菩薩が奈良東大寺大仏建立の大勧進(寄附事業)の際、厳島へ渡られる途中当山の方より霊光輝くを不思議に思い船を当山の麓に着け山に分け入り、大杉の地にたどりついたとされます。霊光赫々と光り輝く杉の大木に深く感激した行基菩薩は、国の安寧と人々の幸せの為に、本尊十一面千手観音坐像を彫刻し、また余木にて諸佛諸菩薩の像を彫刻されました。 十一面千手観音坐像を当山の南の景色の良い所(現在の場所)に観音堂を造り安置し、修行の道場としてまた、多くの人々の幸せを祈る場所として極樂寺は開かれました。 この話が時の天皇、聖武天皇に達し、此処に七堂伽藍を造営して永くこの国が安寧であることを祈れと勅願をだされました。

その後、大同年中(806~810)後に高野山を開創されるお大師様(弘法大師空海)が当山へ登られ、伽藍再興、観世音菩薩の古像を修飾し、再び開眼供養され護国安民の為に本尊に祈り修行の道場とされています。脇仏不動明王、毘沙門天王像は弘法大師作と伝えられています。

”鳥羽上皇から「上不見山淨土王院」の勅号賜り、使者として佐藤教清(後の西行法師)来山”

久寿年中(1154~1156)には鳥羽天皇が本尊の由来を聞き深く御崇信あらせられ、国家鎮護の御願の道場として伽藍の再建し僧坊を建立され、「上不見山淨土王院」の勅号賜りました。殊に「上不見山」の山号は、御宸筆(天皇御自ら書かれた書物)の額を西行法師様が勅命にて此れを自ら登山され、その際「駿河なる富士をば安芸にひきかえて上見ぬ鷲の峯のとうとき」と詠まれました。

天文十年(1541)合戦の戦火により伽藍消失。

天文十年に大内家の陶晴賢(すえはるかた)が当山に籠りし時に合戦の舞台となり伽藍悉く消失。その後永禄年中(1558-1570)に毛利元就公時の住職に当山の由来を尋ねられ深く本尊を信仰し百度の参詣をされた。永禄五年(1562)に毛利元就公の御寄進で今の本堂を再建された。毛利輝元公毛利元清公も当山への信仰厚く伽藍再興、寺領寄進された。

その後藩主として赴任した浅野家は、観音菩薩への信仰が非常に厚く、寺での法要を盛大に行い、毎年必ず正式な参拝を行い、また明治まで京都の五摂家(藤原北家流の五大名門公家)の一家一条家は当山を公式な祈願所として重視し、護摩法要を行う際には代理の参拝者(代参)を派遣して祈祷を欠かさなかった。

所蔵文化財

極樂寺本堂

元の本堂は天文10年(1541)に消失。現在の本堂は永禄5年(1562)毛利元就公により再建されたもの。方三間の母屋に四方一間の裳階(もこし)を付けた宝形造り二重屋根、内部主屋方三間の禅宗様仏殿様式に和様の裳階をつけた唐様建築。

本尊十一面千手観音坐像

像高206㎝で両脇仏に不動明王、毘沙門天の立像を配する。伝説では天平三年(731)行基菩薩により作られたとなっているが、特徴が平安時代を示しており、恐らく平安中期ごろの作である。安芸路では非常に珍しい仏像である。

半肉彫虚空蔵菩薩像

元極樂寺に有った求聞持堂の本尊である。黒漆りの枠に板を張り、その板の中央に円形に囲われた蓮華座の上に座す虚空蔵菩薩を掘り出している。裏面には文禄5年(1596)2月の造立年月日が刻まれている。

鰐口

明応2年(1493)に大工久信が制作し、長い期間本堂正面に掛けられていた。均衡のとれた優作で昭和42年に広島県指定重要文化財になった。